若江の忠霊塔―-わが父の眠れるところ   

        
                                                   杉山三記雄

 
 
 
 
 
                  

近鉄奈良線若江岩田駅の商店街を南へ400mほど歩くと道沿いに木々に囲まれゆったりした敷地に白い石塔がそびえている。今やこのあたりのランドマークにもなっている若江の忠霊塔だ。昭和18年(1943)当時、若江村村会議員だった奥野音吉氏が私財を提供し、尽力し、建立された。当時の小学生だった知人が語るには、「戦前は出征兵士が塔の前を通り若江岩田駅迄、見送られた。また若江岩田駅で白布に包まれた小箱の中に入り“英霊”として迎えられ、終戦に近づくにつれ、出迎える“英霊”がふえた」と。

戦後66年を迎え、この塔を何の建造物か知らない子供が増えているらしい。

戦争中の昭和18年生まれの私は、戦争そのものはよく知らないが、父が1枚の“赤紙”といわれる召集令状により中支(現在の中国湖南省零陵)の兵站病院にて戦病死し、ここに祀られている。戦死及び戦病死者およそ260柱が塔内に祀られているといい、毎年、若江遺族会中心にお祀りがされている。当時の若江村の総人口は4501人(昭和19年総理府統計局人口調査から)で兵役の対象の成年男子数の内、この数字の戦没者となれば、高い率を示している。日本人の全体戦没者数310万人そして隣国を初めアジアに及ぼした犠牲者数は1千万人はくだらないといわれている。当時の政府や軍は、戦争遂行と戦意高揚のため市町村に対して各地で積極的に忠霊塔や碑の建立を奨めた。昭和6年(1931)7月に東大生、当時の東京帝国大学生へ実施した意識調査によると満州・蒙古への武力進出について90%弱が賛意を表している。現在から考えると異常に思われるが当時の空気を伝えている。今は、第2次世界大戦時の建造物は歴史的なものになり、若江の忠霊塔もそのひとつであり、“戦争遺跡”とも呼ばれるようになるが、戦没者へ衷心をもって、調査し拙文ながら記録しておきたい。


若江の忠霊塔建立の歴史

 若江の忠霊塔は660u(200坪)の敷地内中央に石塔(花崗岩・高さ10mほど)、礎石の幅13m強を擁して石塔下に納骨堂があり、その幅は4.5m。納骨堂内部は参拝者が回廊できる広さになっている。塔を挟むようにして、左右に「若江村忠霊塔建設の由来」の石碑があり、一方に「頌徳」の石碑が建っている。

拓本は、中河内拓本クラブの御協力で採拓していただいたものを写真撮影し掲載している。これらによると、「若江村忠霊塔建設の由来」は、当時の若江村村会議員の奥野音吉氏が土地並びに建設の一切の費用を寄付され昭和18年2月17日起工し同年12月8日完成したと記されている。石碑の建立日は完成と同日である。「頌徳」碑は昭和29年10月吉日と刻まれている。このように戦争の終結を境にして昭和18年から昭和29年の歴史の流れ時代の変遷が、後に記すごとく連合国総司令部(GHQ)の存在と国際状況が大きく影響を与えている。したがって若江の忠霊塔も影響を受け“舎利塔“と名称変更した時期がある。昭和18年といえば国内では物資など何もかもが不足しているときに、このような塔を建設された奥野氏は、建設業界に大きな力をお持ちだったからなし得られたものだろう。

奥野音吉氏(明治23年6月15日生まれ、昭和46年11月5日逝去享年82歳)は、若江村に生まれ、のちには大林組林友会(大林の下請け名義人として従事する鳶職、大工など下請仲間同士の連絡親睦組織)の会長職を務められた。氏は、木屋市一門とは別途に大林組名義人となった町方鳶であり、当時としては少数例であった。石の切り出し作業で事故にあわれ、それ以降は義足で現場に出られる。大大阪のシンボルになった昭和六年完成の、大阪城天守閣復元に従事し大きく貢献したのが奥野音吉氏である。ここに当時の工事状況の写真がある。家族の方にお話を伺うと社会に貢献することを信念にし、「頌徳」の石碑にあるように戦後においても若江村遺族会会長として遺族の福利厚生に尽力を尽くされた。昭和18年愛息、徳男氏(享年26歳)がニューギニア戦で戦死されている。筆者が子供の頃、お釈迦様の誕生日の4月8日は、若江では「花祭り」といって奥野氏の先導で「白象の山車」を引いて、若江の忠霊塔まで廻った。ここでお菓子や甘茶がふるまわれ当時の子供たちの楽しみになっていた。当時を思い出して絵にしてみた。

忠霊塔建設の歴史と時代背景

 明治新政府の発足以降、帝国在郷軍人会が主体になり忠魂碑が各地に建立された。国の大きな方針のひとつに富国強兵があり、列国に負けまいとする時代背景がうかがわれる。その後、昭和14年(1939)1月、内務省は各市町村に一基の忠霊塔の建立の許可を出し、同年7月に大日本帝国陸軍は「大日本忠霊顕彰会」を設立し国内の各市町村毎に一基ずつ忠霊塔の建立及び日本以外の地域での陸軍による戦争の跡地での建立を奨めた。

大日本忠霊顕彰会には内閣総理大臣を名誉会長、菱刈隆陸軍大将を会長、各省大臣、海軍大将等が役員として名を連ねた。全国的には塔の建立にあたって資金は国や自治体の援助もあったが、苦しい財政状況下ではその市町村の国民は「1日戦死」運動と呼び、1日の収入をなかったものと思い1日の給与を拠出したところが多い。戦争が拡大した昭和16年(1941)9月には陸軍省の通達が出され忠霊塔の統合された経緯もある。忠霊塔には西南の役、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、満州事変、支那事変、太平洋戦争、大東亜戦争の各戦死者の遺骨を納めている。

第2次世界大戦後は連合国総司令部(GHQ)が戦争を賛美するとか軍国主義的として忠霊塔の多くは撤去された。しかし塔を土に埋めて隠し撤去を逃れたものもあると言う。

昭和27年(1952)4月28日、日本国の平和条約と日米安全保障条約が発効し、日本国主権の回復がされた後には忠霊塔に替わり慰霊碑が建立された。国や軍部の方針そして終戦を経て連合国に占領された後の変遷、日本の独立という経過により若江の忠霊塔の立場も根底から変わりゆくありさまは前述の石碑文に如実に表れている。


若江校区遺族会の戦死、戦病死の状況

 若江校区遺族会の名簿を参考にみると93人の戦死・戦病死など戦没者があがっている。この名簿と若江の忠霊塔に安置の戦没者とは一致するものでないことをはじめにことわっておきたい。名簿の戦没年月は昭和14年1月から戦後の昭和24年10月までの記載があり、これは日中戦争から戦後においても戦争の影響で亡くなった戦没者がここにあがっている。判明しているなか1番年齢が低いのは17歳、そして年齢が高い人は40歳である。亡くなった平均年齢は27.2歳である。次に戦没地ではフィリッピン、ビルマ、ニューギニアなど南方が54人、中国(満州含む)では27人、内地(沖縄含む)6人、韓国(北朝鮮含む)2人、ロシア(シベリア含む)3人、不明1人の計93人。これらの数字が表しているようにフィリッピンなど南方の戦没地が多く58.06%を占めている。次に多いのは中国で29.0%の割合となる。両方を合わせると90%近くにのぼる。

 戦没年を調べると昭和12年1人、14年には2人、15年には1人、16年には1人、17年には2人、18年には9人、19年には29人、昭和20年に亡くなった人は38人、20年以降では9人、不明1人。

これでみると昭和18年から昭和20年間の戦没者は全体の82.6%という高率を示している。

 以上から戦争の拡大と戦況の悪化にともない戦地が中国本土内の拡大そして南方での戦地の拡大を示し、戦没者もこれらの状況に合わせるかのように昭和18年から終戦の昭和20年にかけて急激に増えていることを示している。敗戦状況が濃厚になり、召集の対象年齢も引き上げ、体力のない割合年齢の高いものまで召集の対象者にしていった。


若江の忠霊塔と大阪府内の状況

 若江の忠霊塔について調査するにあたって大阪府内の状況を知りたくて大阪府に問い合わせをすると、ここでは分からないから各市町村にあたってほしいとの返事があった。しかし、各市町村の自治体もこのような忠霊塔や慰霊塔などの建造物について把握はしていない。これも政治や時代の流れなどの影響でこのようなことになっているようである。とにかくこのままでは調べが進まないので大阪護国神社を訪れた。

この神社では、『終戦50年記念大阪府忠魂碑調査表』大阪護国神社編集、忠魂碑調査集編集委員会 発行者宮司柳澤寮を拝見した。ここには碑ごとに写真を初め建立地、建立年月、管理体などかなり詳細に掲載されている。

明治年間から平成になってから建立されたものを自治体別に把握されている。資料によると大阪府内には計305五基があり大半が昭和期に建立されており、その数は202基。このなかでとりわけ目を引くのが信太山忠霊塔で当時の日本陸軍が昭和15年から工事に入り昭和17年4月に建立したもので規模が大きい。全高13m、塔部分 幅2m、奥行き2.25m、塔下部の納骨堂幅9.5m、奥行5.5mの壮大なものといえる。

近辺の自治体別に基数を挙げると四條畷市内4基、大東市内4基、東大阪市内9基、八尾市内10基、柏原市内8基となっている。計35基にのぼる。

これらを調べた結果、当時の府内、市町村レベルでは、若江の忠霊塔は、石塔といい敷地の広さといい、他に類を見ないほどの規模を有している。ここに祀られている1人の私の父親について少し書いてみようと思う。すべての戦没者の残された親や妻あるいは子供達、そして家族は、精神的、経済的な困難に、戦後においてさらに厳しく襲った。国レベルの鳥瞰図的でなく一庶民の虫瞰図的に、その厳しさは自分もそうだったが、同窓生や身の回りに多く目にしたし、お話も伺っている。身近な例として私の父の場合を挙げてみよう。


父の場合

 私が古希に手が届く頃になって、思いがけなく父の軍隊日記帳と思われるものが私の手元に届くことになった。軍隊に入隊してからのものなのに、不思議に、当時の敵性語の英語で“DIARY”と書かれている。

中身を読むと中部第30部隊と末尾に記され、訓練や内務班生活のことが日記風に記載され、時には上官らしき人のコメントと印が検閲のように日記にある。

 日記は、昭和16年10月から翌年の17年3月までになっている。この中、対米の宣戦布告した歴史的な12月8日の記述があり「本日6時帝国は西太平洋に英米軍と交戦状態となれりと発表あり、10時中隊長殿より時局につき御訓話があった。愈々我らの本領を発揮すべき時は来た。帝国の運命を決する重大時局来たのである。一死報国盡忠御奉公申し上げねばならぬときが来たのである」当時の緊張ぶりと決意が生々しく読み取れる。この前日の7日には「・・・午後母が面会に来る。毎日母の顔を見ているときは別に気を付かないがかうして時々しか見ないと何だか急に老込んだ様に思われる。平素の親不幸が誠に申し訳なく思う。」

国に忠義を尽くさんと思えば親不孝になりうることが矛盾を起こすように両日の日記に表れている。1回目の軍隊生活を経て2度目の召集を受け、昭和19年に入隊し中国へ渡って激戦の湘桂作戦で従軍することになる。


湘桂作戦とは

支那派遣軍は昭和18年初頭には総兵力62万を擁していたが対する中国軍は、290万あり、別に中共軍40万、地方軍約20万があった。支那派遣軍はすでに南方などに兵力をまわさざるを得なかったので結局52万が作戦にあたることになった。当時の中国には英米の基地があり中国軍に対して戦力の支援があり兵力・兵器の供給や物資の補給が強力になされていた。父の属する部隊は大阪68師団に所属し泥沼作戦に巻き込まれることになった。

中国の湘南地方から桂林の約2000kmを戦いながら移動するもので軍隊始まって以来の大規模なもので湘桂作戦と名付けられた。昭和18年に中国大陸から出撃した爆撃機により台湾が空襲されたことにより始まり、危機感を抱いた軍部は中国の制圧を急いだ。併せて南方への海上輸送も敵による海上封鎖で出来なくなっていたので中国内の陸路による輸送路の確保と蒋介石政府のある重慶攻略を目的にしていた。

従軍して戦った兵士たちは内地に残る家族や国土を守るため必死に戦場で奮闘したのであろう。大阪68師団の兵力(10、600人)のうち77%は死亡した。この作戦を指導した方面軍の責任者であるエリート軍人官僚は、終戦後も生き残り日本で自衛隊に再就職することになる。中国を戦場にしたことで中国の人々を巻き込み餓死者も含め約千万人の犠牲者を出したといわれている。


戦争をふたたび起こしてはならない

若江の忠霊塔に祀られている戦没者それぞれにドラマがあり悲劇があるだろう。これは戦没者を初め遺族にとっては決して忘れることができないし、忘れてはならないことだろう。

国家や軍に奨められた忠霊塔など運動が政治や時代の変遷とともに変遷した面があるだろうが、純粋に国や郷土、家族などのために尊い命を投げ出した人たちの存在はおろそかにできないだろうし、忘却のかなたには決して追いやってはならない。戦没者が安心して眠れるように今や年老いたが「戦争遺児」のひとりである筆者は、この塔が“平和のシンボル”として永久に祀られ語られていくことを願っている。

末尾になりましたが資料提供など御協力を賜りました奥野秀彌氏はじめ若江遺族会会長山下正巳氏、採拓していただいた中河内拓本クラブ代表田中絹子氏と会員の方々、そして若江の忠霊塔の維持管理のため奉仕されている、多くの方々に紙面を借り、謹んで感謝申し上げたい。


参考:『大林組林友会百年史』大林組林友会百年史編纂準備室編集

『終戦50年記念大阪府忠魂碑調査表』大阪護国神社編集、忠魂碑調査集編集委員会 

『湘桂作戦』森金千秋著

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著

ウエブ・ウィキペディア 
(以上の文章と写真等は『あしたづ』第14号ー河内の郷土文化サークルセンターの発行ーから転載したものです。 杉山)