大坂夏の陣の決戦場

若江堤は何処か

                杉山三記雄

                                                                                                                                                                                                                                                                                                         私のように若江に生まれ育った者は幼いときから豊臣側の若武者、木村重成の話を耳にすることが多かった。何しろ兜の緒の端を切り、兜に香を焚き、死後まで想いはかり、徳川側の井伊軍と戦い、若江の南近くの堤の近くで討ち死にしたとのことだった。堤とは単純に川の堤と思っていたが、大坂夏の陣の元和元年

 










   


 
 
 

(1615)は大和川付替え以前なので旧上若江村(今の若江南町)あたりには大きな川がなかった。“堤”とはどこを指すのかが疑問だった。  

小さい頃からの疑問のもう一つは、近鉄奈良線の若江岩田駅の南北に走しる旧河内街道のすぐ東に沿うようにあった、土地の人から「松林」と呼ばれる場所があり、そこには南北に伸びる堤状の高さ三、四メートルほどの小高い場所があった。(
左図が堤の回想スケッチ)今から3,40年前の若江岩田駅周辺は、特に南方に向くと田圃ばかりで現在では想像できないほど寂しい農村地帯だった。このような二つの疑問を持ち続けたが、木村重成が亡くなったのは「若江堤」という旧大和川の支流・玉串川の外堤の近くだったと分かったのは相当の歳月が経ていた。

昔から大きな川からの洪水を防ぎ村を守る外堤を設けるのは大和盆地にも例を見られるが若江の西方の隣村、中小阪村では昔から洪水を防ぐため村の東、北、南に堤防を築き囲んでいた。このような事を知るにつれて二つ目の疑問の堤状のものは若江堤址の一部だとの確信に至った。

元和元年5月6日の「若江の戦い」があり、2日後には大坂城が落城した攻防の要の一つ、若江堤について調べていきたい。

古文書にみる若江堤

 天下を決する戦いになった大坂夏の陣「若江の戦い」は戦前、陸軍の実戦教材として明治33年に参謀本部編大坂役附表図(図1①))が作成されている。ここには実測で若江堤が描かれているので、この堤の長さや場所を調べるのに史料となりえるものと考える。なお、この附図作成に当たっては当時の古図を参考にしたとここで記している。

古絵図では、八尾市立歴史資料館発行「特別展・大坂の陣と八尾―戦争とその復興―」のなかに八尾市の常光寺の元和元年五月六日河州八尾表若江表軍場図の読み取り図から引用すると(図2②)には、同様に小堤が「道堤」として表記されている。この小堤の形状、位置や戦闘配置から、参謀本部編と同じくし、若江堤を指すものと解釈できる。また、若江の旧家、飯田家の絵図(左下)のなか、若江の土地柄により川や樋が詳細に描かれており、記載として“大和川(玉串川)に沿って堤を構築するに当たり、下若江・若江・上若江の三村で分担し、南側148間2尺を上若江分、北側の239間1尺を若江村・192間を下若江分したと記している。また、(制作年代は延宝5年(1677)から大和川付替えられる宝永元年(1704)の間に描かれたものと思われるー東大阪市文化財協会資料から)しかし、この絵図のなか、若江堤に該当する位置には道筋のみ描かれているが、前記の常光寺の道堤を指していると推察する。

若江堤の名称の由来については、「八尾市史」に於いても「木村重成の戦死」の項において「世にいう若江堤」として記述しており、東大阪市教育委員会も「若江堤」の名称で「若江の戦い」を説明してきている。

文豪の司馬遼太郎氏は、昭和37年(1962)に文芸春秋に「若江堤の霧」を発表している。

若江西村家文書の「若江村合戦覚書」のなか「若江村ヨリ二町(約200メートル)東堤アリ」、とあり、八尾塩川家の文書に「(ただ)今碑(山口重信墓)銘御座候(ござそうろう)所は往古は高さ二間(約3.6m)余り之小堤ニ御座候」とある。この墓は現在、若江墓地にあって、墓地の形状は南北に長い方形状で、かつての若江堤に設けられたのがうかがえる。

大坂軍状記(東大阪市吉田 吉富楢文氏蔵)河(州)若江村御合戦きき書のなか、元和元年5月6日(うま)の刻より(いくさ)始り候は、碑の銘御座候所ハいにしへハ高き弐間余の小堤にて御座候。若江村へ弐町ばかりの細道御座候而し、両方沼田、堤は北南、東ハ中野畑ニ・・・・とある。(以上、古文書の箇所は荻田昭次氏―「わかくす」からの引用)

中野畑は旧陸軍参謀本部編大坂役附表附図や八尾市立歴史民俗資料館『研究紀要』資料などから現在の位置を推定すると八尾市堤町辺りとなる。堤町という地名は恐らく堤に由来すると思われるが、旧玉串川の堤を指すものでなく、若江堤に由来するものと推定するが、確証には至っていない。

それでは北の端はどこかとなると若江村の古文書に記載あるように下若江、若江、上若江の堤分は合計579間3尺としているので千メートル強となる。また、「飯島三郎右衛門は高井田村の出身で若江の戦の初戦で矢数を射、東軍の人馬に被害を与え敵方の備えを崩れさせた。山口伊豆守重信が木村長門守と槍を合わせようとしたとき、三郎右衛門は駈け出して逆に突き伏せられた。郎党の高井田七右衛門が三郎右衛門を肩にかけ北へ五、六町(約5,600メートル)退いたところの池の水を飲まし入れたが絶命した(山口伝)。」(荻田昭次氏―わかくす17号より)とある。河内街道ができたのは大和川付替え後のため、南北の移動は若江堤道しかなかったと思われるので、若江岩田駅近くにある、飯島三郎右衛門の墓(写真①1)は、山口墓と同様に若江堤の上に建立されたと解釈できる。このことは「河内名所図会」の飯島墓からもうかがえられる。

従い若江堤の北の端は、この墓か、あるいは、もう少し北方まで及んでいたと思われる。当時のこの辺りは旧玉串川の「六助の樋」から流れる川や雁戸樋橋が架かり、湖沼が集まっていた。この北延長線上には、大坂夏の陣で打ち取った首を洗ったといわれる「二つ井戸」があったので若江堤から奈良街道に至るまで「若江の戦い」の激戦ラインであった。

若江堤の中間位置は、長沢(土地の人は,“なごそ”と呼ぶ)辻地蔵(写真2②)と考える。というのも若江村の旧家、西村家文書にある“若江村東二町”に当たり、建立が康永元年(1342)のこの地蔵は、若江堤の上にあったため洪水から逃れ、今に至るまで現存できたと推察できる。

彦根城博物館所蔵の若江合戦図

井伊軍が木村軍に戦い挑む場面を享和2年(1802)彦根藩士五十嵐教道が描かせた合戦絵巻をみたことがある。である。当時の玉串川は大和川付替え前なので、川幅は恐らく200メートルはあったといわれている。従って、この川の堤は相当な幅と高さが必要とされるものである。この絵巻に描かれている堤は、小振りな形状なことと木村隊を圧倒する井伊隊の戦闘場面から判断すると、ここに登場している堤は、古文書で小堤と書かれている、若江堤を描いていると考えるのが自然と思われる。

旧玉串川の堤として今なお残る御野縣主神社(写真3③)の旧堤は300年経てもスケールの大きさがみられ、その違いがうかがわれる。(この「若江合戦絵巻、彦根城博物館の資料の絵巻からイメージした)

若江堤と古道

常光寺の古絵図面に描かれている「道堤」とは堤の上に道があったのか、あるいは堤に沿うように小道が走っていたので「道堤」との標記があるのかは定かではないが、井伊藩の絵巻の小堤上には道が描かれていないので道は堤に沿う形で西側に走っていたと考える。古絵図では若江の旧家飯田家所蔵の物にも道筋が描かれている。前述の「松林」のすぐ西側に沿うように若江岩田駅の南、河内街道から東に分かれる古道があり、石道標(写真④4)が建っているが「弘化」の年号が入っている。

なお、東大阪市発行の「東大阪市の石碑」によると、この石碑には「北面 弘化3午年 東面 左 平野・・・。南面 南右 京の・・・ 松 西面 加納村 惣他力」との文字が刻まれている。弘化といえば1840年代であるが、地元では、この道は昔から「中平野道」と呼ばれている。

筆者が「若江堤」に沿って古道を南へ向けて歩いたところ長沢辻地蔵まで、その平行性が確認できるが、長沢辻地蔵から南の山口墓へは、現在では確認が出来ない。大和川付替えを経て建物の建立もあり消滅か、小道の付替えもあったのではと考えられるが、1801年制作の「河内名所図会」の山口墓の場面では道が描かれていないので大和側付替え後の影響が考えられる。また、長沢辻地蔵と呼ばれていることから、ここが「辻」であるため古道が分かれていた可能性も考えられる。

地形や地元の証言から

およそ古道に沿うように南北に伸びていた松林(池もあった。この池の位置が、古文書記載の「飯島三郎衛門が山口重信と戦った地点から距離北へ5,6町ほど」になることから飯島三郎右衛門が絶命する前に水を口に入れたという池だと思われる。)を含めた高台は、南は若江本町1丁目2の現在の「ハイマート若江」から岩田町3丁目12の現在の「サンメゾン若江岩田」辺りまで約400メートルにわたり形成していたと土地の人の証言や筆者の記憶から言える。

しかし、堤防の形状(スケッチは筆者)を残していたのは現在「松林荘」がある若江本町1丁目5辺りの100〜200メートルの箇所となる。なお、この「松林荘」の名称は、この辺りに松林があったためつけられたものである。

昭和30数年まで若江岩田駅からの旧河内街道(現在、商店街)の両側は田や畑が多く、旧村から小堤は約二町ほど東にという村の古文書と一致する位置となる。

古道からすぐ西側はストンと低地になっていた。松林を中心として土地の人達に尋ねると高台の土は大量に撤去され運び去られた、地中には多量の砂地を形成していたので、よい建材料だったとの話しだった。砂地は旧大和川の氾濫により堆積したものと推察する。この際に地中より古い刀や鉄砲の弾などが出てきたと伝わっている。これら出土品の年代鑑定はされてないので「若江の戦い」のものと限定できないのが残念なことだが、このような証言がいつの間にか歳月の流れの中に埋もれることのないように記録しておきたい。現状では高さがほとんど認められないのはこのような多量の土砂の撤去があった為である。

また、数年前に筆者が、この辺りに古くから居住の人に聴き取ったところによるとこの辺りは、かつて国有地だったことが証言されているところから旧村が関わる公的な土地の堤防跡であったことの証しであるといえる。さらに地元の若江で農業に従事していた方から若江堤の東の田圃は戦後まで膝までつかる深田だったことをお聴きしているし、若江堤を境にして西方も若江の旧村までは低地だった。

「若江堤」を歩いて想う

この稿を書くに当たって何回かを若江堤址を歩いてみた。歩きながら村に伝わる話しとして明治生まれの祖母が「若江村の人間は、この戦いで亡くなった侍たちの亡骸を弔うため戸板で運ばされた。」と子どもの私に話したのを昨日に聴いたごとく耳によみがえってきた。昔から河内地方では戦乱が多く、特に若江城をめぐる畠山一族の争いが、応仁の乱を引き起こし、ついには室町幕府の最後の将軍足利義昭が若江城に逃げ込み、それを追って織田信長も若江入りするなど、天下を揺るがしたものだが、そのたびに村人たちは戦に巻き込まれていったのだろう。